大山は、兵庫丹波の中央、中世の大山荘園をもとに発展しました。 今もその面影を残す農村風景は近郊都市では珍しいものです。 最近、自然環境の良さと交通の利便性、そして人の優しさが人気で定住希望者が増えています。
位置・地形
大山地区は丹波地域の中央部、兵庫県丹波篠山市の北西部に位置し標高約200メートルに開けた篠山盆地を宮田川が分断した丘陵地です。地区の中央に流れる大山川とその支流により河岸段丘地形が形成され独特の景観をつくっています。面積は21.18平方キロメートルであり、うち80%を山林が占めており谷部に田畑が開かれた典型的な中山間地域です。
交通網は、地区中央を国道176号線が縦断し、恐竜化石が発見された川代渓谷を通る県道山南篠山線が横断しています。丹波篠山市中心部、JR、丹南篠山口インターチェンジ、丹波県民局がある丹波市柏原町までいずれも10分以内で移動でき、車による交通アクセスに恵まれた地域です。公共交通は神姫グリーンバス、丹波篠山市コミュニティバスです。
歴史
大山地区の歴史は古く、全域から弥生時代の遺跡や古墳が発見されています。平安時代から鎌倉・室町時代をへて戦国時代に至るまでは東寺領の荘園として発展しました。今でもため池や谷部に当時の様子を見て取ることができます。また、当時の歴史資料が豊富に残されており多くの中世研究者は大山に高い関心をもたれています。(平成5年には荘園サミットが開催されました。)(平成27年には東寺百合文書世界記憶遺産登録記念として「荘園文化フォーラムin篠山大山」が開催されました。)
江戸期に入ると篠山藩の支配を受け、大山組として組内16か村の結びつきを強めました。明治4年の廃藩置県により豊岡県にさらに9年には兵庫県に編入されました。そして明治22年(1889年)、町村制の施行により旧大山組諸村を大字として大山村が成立しました。
その後大山村は、昭和30年(1955年)味間村、城南村、古市村と合併、丹南町になり、さらに丹南町は平成11年(1999年)篠山町、西紀町、今田町と合併、篠山市となりました。そして、篠山市は令和元年(2019年)丹波篠山市と市名が変更されました。
人口
アイデンティティ 「趣法の精神」
大山地区内には大小多くの神社があります。そしてその中心となる総社が神田神社(大山上、遷座1162年)です。地区住民は同じ氏子として古くから強い結びつきがありました。藩政時代、篠山藩は譜代大名として幕府を支えていました。厳しい年貢と土地生産性の低さから幕末になると大山地区も貧民が多くなりました。地区では、苦境を乗り切るために共同林を設け地区を挙げて植林事業に着手しました。後年、そこから得られたお金で、学校や橋をつくったり貧しい人を助けました。この山は趣法山(しゅほうやま)と呼ばれて今日まで受け継がれています。趣法とは、村を立て直す事業、財政再建方法の意味です。戦後は、「山よ緑よふるさとよ」のスローガンのもと先祖から預かった山々を守りながら困難に事案に地域総出で取り組んできました。ふるさとを守り育てていくためには、区民一体となり、新しい取り組みをも積極的に導入する「趣法の精神」が今も大切に受け継がれています。
大山荘と東寺百合文書 「荘園文化フォーラムin篠山大山」より
古代から中世にかけて全国各地で荘園が開設されましたが、篠山市内においても数多くの荘園が確認されています。荘園とは、奈良時代から戦国時代末にかけて主として京都やその近辺に住む貴族や寺社が私的所有していた土地のことです。
篠山市内では、東寺領大山荘、近衛家領宮田荘、東大寺領後川荘、京都祇園社領波々伯部保などが有名ですが、その中でも「東寺領大山荘」は「東寺百合文書」に代表される数多くの文献史料が残され、文献史料と考古学的な資料、地域に残された景観や遺構などから、古代から中世にかけての歴史を明らかにすることができる貴重な地域です。
古代・中世の大山の歴史を知るときに欠かせない「東寺百合文書」とは、平安時代以来一貫して東寺の宝蔵に収められ、8世紀から18世紀までの約1千年間にわたる膨大な量の古文書群で、その数約25,000通に及びます。日本の仏教史、寺院史等様々な研究に資する資料がまとまった貴重な資料であるとして、平成9年に国宝指定を受け、京都府立総合資料館が所蔵しています。京都府立京都学・歴彩館 東寺百合文書WEB
大山八景
大山八景とは、江戸時代初期の『大山記』に記載されている大山の美しい風景の名所覚書です。
- 高蔵寺の晩鐘(高倉)
- 波賀尾山の暮雪(大山新)
- 籠原のせせらぎ(大山上)
- 五本松の秋月(町之田)
- 保谷の夕照(大山宮)
- 追手森の時雨(大山宮)
- 塩路池の落雁(長安寺)
- 大山谷の田植え風景(高倉)